ヒデキマツバラの猫道Blog

弾いて歌って踊るサウンドクリエイターが綴るドラネコ風エッセイ

お客様は神様なのか?

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映画館から出たら、街の景色が違って見える。
旅先から帰宅したら、家の中や外の光まで違って見える。
そしてコンサート本番を終えたら、日常の何もかも違って見える。

 

春爛漫

この春一番の陽気に恵まれたその日、僕はコンサート会場内を駆けずり回っていた。「駆け回っていた」のではなく「駆けずり回っていた」というのがミソである。

ピアノ演奏のほか、ミキシングルームで舞台進行、客席でビデオ撮影を兼任していた。自分の演奏を終えるたび裏方に回る。他のスタッフの見落としや予期せぬハプニングの心地まで心休まる暇がない。

ステージ、ミキシングルーム、客席。さほどの距離でもないが、円滑に舞台を進行させていくのにはタイミングが決め手。各所で持ち場を担い、何かあれば駆け出す、を繰り返しているうち、まるでスタートダッシュのトレーニングに勤しむ陸上選手のようであった。

演者と裏方では気構えもまるで異なってくる。音楽表現からトークまで、ステージ上では本領を発揮しなければ意味がない。存在感を光のように放てば放つほど効果がある。かたや舞台裏では対処能力プラス、影武者のごとく人目につかないのがポイントである。つまり存在感をなくすほど「場」や「雰囲気」といった目に見えない空気感が演出できる。舞台の表と裏、それはまるで陰陽説だ。

こうしてピアノ奏者で短距離走選手で影武者な2時間、気づけば汗まみれ。暑いのは気候のせいか、会場の熱気か、はたまた自分が駆けずり回っているせいか、なんだかよくわからなくて可笑しかった。 

我ながら苦笑した失敗談がひとつ。1曲終えて舞台袖に引けて初めて、首元のリボンネクタイがほどけていることに気づいた。ま、あれだけ駆けずってりゃこうなる。いつか喜劇作家に転身したら使える小ネタが増えたと喜ぶのが得策である。

コンサートの最後に撮った記念写真。春爛漫な笑顔と充足感をたたえた出演者やお客様がたにまじって、僕ひとり真夏から汗水垂らして迷い込んできた有様。

「今日は拍手がすごかったわね」と言われ、ああそうだったっけ、と。お客様が舞台に集中できる雰囲気作りと、出演者の緊張感を和らげることに手一杯で、自分が楽しもうなんて意識にすらのぼらなかった。

 

お客様とは何ぞや?

こうして書いていると、さぞ他人最優先で自分を犠牲にし、舞台という歯車の中で翻弄されっぱなしだったという書きぶりである。が、実情は違う。

それもそのはず。
僕は人を喜ばせることが大好きなのだ。

お客様を神様だと思ったことはない。お客様も舞台の一部なのである。そして自分自身の一部でもあるのだ。

目の前に居並ぶ他人の群れが、あなたの一部であるとしたらどうだろう。あなたにとって「共有」や「共感」といった概念がずっと深遠なるものに書き換わるだろう。そしてあなたは生まれ変わる。舞台に関わり、お客様に関わり、あなた自身を捧げられることが、何よりの生きがいになるのだ。

それに対してあなたが受け取る対価ときたら、物質世界ではちょっと計り知れないものがある。僕の場合、客出しが終わり、撤収を済ませて帰路に着く頃、対価を受け取り始める。日常の何もかもが様変わりするのだ。車窓から臨む街並みは一変し、ただいまとドアを開けた自宅はまるで初めて入る別宅。機材を片付けても自室に入っても、昨日までの日常とは違った非日常な感覚。

それはパレットに出した絵の具を全色使いきった先にたどりついた真っ白な空間。

そこで気づく。これが新しい自分の始まりだと。

そこから次なる舞台を目指し、完結するたびに使える色がどんどん増えていく。全色を出し切るたびに、純白の度合いが増す。

あなたも生きて働いている以上、様々な場で様々なレベルで様々な規模で、一期一会に他人を前にすることだろう。その相手を自分の一部だと思えるようになった時、あなたはかつてない色の絵筆を持っているに違いない。それで描いて描いて描きまくってみよう。あなたの宝島が見えてくるから。