日曜日のAround The Worldコンサートには、多くの皆様にご来場いただきまして、どうもありがとうございました。
当日のことは、また日を改めてご報告させてくださいね。
先週はずっと音源制作に明け暮れていたので、さっそく父の墓前へ。
無事盛会に公演を終えられたことの報告と、お彼岸にお参りできなかった詫びを入れてきました。
なぜだか今年は、彼岸花がやけに目について仕方ありません。
久しぶりのお散歩、図書館の返却、父の墓苑、足を向ける先々で、赤い夕陽色の彼岸花が優美に咲き誇っているのです。
(画像出典/https://www.redbubble.com)
父が今の僕くらいの歳に、僕はもう小学生でした。
あの頃の父親のことを思い返すにつけ、今の僕は男としてどうなんだろうという妙な気持ちになります。
父が今の僕を見たら、なんて言うのだろう?
僕は宇宙大好き少年でした。
毎夜、星座早見盤を片手に、3メートル近い門柱や家の屋根によじ登っては、天体観測に夢中でした。
将来の夢は天文学者。天文学の権威ゲーレルズ博士を紹介され、アメリカのアリゾナ大学まで下見に行ったくらい本気でした。
一度だけ、屋根の上で父と仰向けになって星を眺めた夜がありました。
宇宙のロマンを語り合ってるうち、父はこんなことを聞いてきました。
「ねぇ、ひーくん、なんでアメリカやソ連はお月さまやお星さまを目指すか知ってる?」
「うん、何かすごいものを発見するためでしょ?」
父はキラキラ輝くお星さまを眺めたまま、優しく僕に語りました。
「ううん、そうじゃないよ。アメリカやソ連はお月さまとかを自分のものにしようと競争してるんだよ」
宇宙開発競争のことなんて夢にも思わない当時の純真な天体少年には、思いがけない事実でした。
「そんなことしなきゃいいのにね」
僕はとても悲しくなって、そう答えたのを覚えています。
音楽の道に進むことを決心した時、猛反対したのは父でした。
音楽畑にいた父は、音楽で身を立てていくことの厳しさを誰よりもよく知っていました。
それはもう話し合いにさえならず、父との間に溝が生じました。
なんて頑固な親父だろう。怒り心頭だった僕は父のことを無視して、毎月ピアノレッスンのため上京するようになりました。
父の方も僕にはノータッチ。受験に合格したその週、下宿アパート探しに付き添ってくれたのは祖父でした。
家族は皆、全面的に応援してくれるのに、父だけが反対していました。
「ちょっと書斎まで来て」
18の春、広島を離れる日が目前に迫ったとても寒い晩、父から呼ばれました。
ふてくされ顔の僕に、父が通帳とキャッシュカードを手渡しました。
「生活費はここに振り込むから。もし足りないようなことがあったら、すぐに電話して。入れとくから」
父から許しがもらえた瞬間でした。
よし、やるぞ! あれだけ反対したのは父の見込み違いだったってこと、立証してみせるぞ。
こうして夢への第一歩を踏み出したのです。
芸大生活が始まって2年目の夏でした。
その夏は例年にない猛暑で、水風呂に入って凌がねばならないほど暑い夏でした。
試験期間中だった僕は、突然大学の事務室に呼ばれました。
顔なじみでよくおしゃべりに花を咲かせてた、メガネの事務のお姉さんの顔が曇ってます。
「さっき松原くんのお母さんから電話があって…」
父はキラキラ輝く星になっていました。
今、1年ごとに父が亡くなった年齢に近づくにつれて、当時の父の真意をうすうす推し量れるようになりました。
もしかしたら、音楽反対にしろ宇宙開発競争にしろ、父は僕の夢を壊そうとしてそうしたわけではなく、僕を守ろうとしていたのかもしれない、と。
僕が大好きな宇宙や音楽のことで傷つくのを避けるために、あえて悪役を買って出て、僕に夢を諦めさせようとしていたのかもしれない。
お父さん、今あなたの目に僕はどう映っていますか?
「ね、ひーくん、そんな甘い世界じゃなかったろ」って思ってますか?
えぇ、確かに僕に息子ができて、音楽の道に進みたいなんて言い出したら、僕は猛反対するでしょうね。
夢だけで食っていける世界じゃないぞって。
それでも息子の好きなようにさせて、後ろでそっとサポートするんでしょうね、あなたみたいに。
夢だけじゃ食っていけないけど、夢を忘れて手堅い人生を送るより、はるかに自由で幸せだよ。
見ててよ、これからも挑んでいくから。
「どうだ、夢だけであそこまでいくなんて、さすがうちの子だろ」
そう言って天国で息子自慢したくなるくらいね。
見ててよ、お父さん!
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