遅い夕食。
独り、フォークにパスタを絡める。
関わる人たち、関わるシーン、めくるめくその日も暮れなずんでゆく。
静かすぎて、誰か、何か、存在感のあるものが欲しかった。
リモコンに手を伸ばす。
何気なくつけたBS。
そこで目にしたものが、映画「ラスト・エンペラー」だった。
思い出の名画
紀元前より人類史上最長の栄華を誇った中国王朝。
その歴代最後の皇帝、溥儀(ふぎ)の人生を描いた映画「ラスト・エンペラー」
イタリア、中国、イギリスの合作で、当時アカデミー賞9部門を総なめにした歴史的名作である。
出演キャストに名を連ねるのが、これも歴史的名作「アラビアのロレンス」で主演した名優ピーター・オトゥール。
さらに日本からは坂本龍一さんが出演、サウンドトラックも担当されている。
個人的には、公開当時、母が映画館に連れて行ってくれた思い出の映画。
紫禁城での撮影を中国政府が全面許可して世界中を驚かせた、というエピソードが記憶に残っている。
まだ中国史さえ知らない年頃だったし、中身まで理解するにはあまりに幼すぎた。
それでもスケールの大きい絢爛豪華なシーンには圧倒されっぱなしで、栄光と没落が入り混じった壮絶な映像はインパクトが強く、子供ながらスクリーンから目が離せなかったものだ。
時代性を超越した価値観
あれから30年、再び目にした「ラスト・エンペラー」
ただひたすらに圧巻!
驚異の眼で4時間テレビに釘付けだった。
やはりまず目を奪われたのが、イタリア人監督ならではの絢爛豪華なシーンの数々。
まるで30年前のデジャヴをなぞるかのような体験であった。
と同時に、見たことがある映画なのに、初めて見るような倒錯感を覚えた。
調べてみると、劇場公開版より1時間も長い完全オリジナル版だとか。道理で。
それにしてもこの映画の迫力は一体なんなのだろう。
昨今、インパクトある映像は見慣れているはずなのに、そんな現代人の目をもってしても圧倒されっぱなしなのだ。
飛躍的に映像技術が進化した現代映画でさえ太刀打ちできない何かがここに宿っている。
歴史的名作というものは時代性さえ超越して、かくも生命力豊かなものなのだと改めて感じた。
なぜ「ラスト・エンペラー」という作品はこれほどまでに特別であるのか。
そこで次章から自分なりに考証していくことにしよう。
驚異の文化
第一にこの映画が特別なこと。
それは画面からはみ出んばかりに迫ってくる豪華絢爛な異種文化だろう。
目にしたこともない独特な民族衣装、小道具、そして舞踊。
当然それらは歴史を通じてかつて一度も中国一般市民たちの目に触れたはずもない。
門外不出の奥義の中でも最奥の奥義であろう。
それらが惜しげなく画面いっぱいに展開するのであるから。
これを映画館の巨大スクリーンで見た日には、カルチャーショックものだ。
驚異のストーリー
第二に、完膚なきまでに徹底したストーリー。
史実とフィクションをまじえながら、数千年続いた巨大帝国が瓦解して灰になるまでを描いた作品。
そこには徹頭徹尾「甘やかさ」がない。
年端もゆかぬ子供と違い、大人になって鑑賞すると、その辺りの味わいが如実に感じ取れる。
たとえば新婚初夜に妃が皇帝の体へ唇を落としていくシーンでさえ、ピンと張られた糸の上を歩くような緊迫感が漂っている。
それはあたかも、物語終盤で皇帝溥儀が夢破れて戦犯刑務所送りとなる運命の布石のように感じられた。
結局のところ、イギリスに留学して直に世界を体感したいと願う若き皇帝にとって、宮中も新婚ベッドも獄中も、なんら変わりない同種のものなのである。
捕らえられ、自由を奪われ、監視されてるという点において。
驚異の演出構成
第三にこの映画を特別なものにしているのが、演出と構成である。
その妙なる創造性には舌を巻いてしまう。
さすが映画界の殿堂、アカデミー賞作品群の中でも際立って傑作なだけのことはある。
この映画を支配している演出構成、それは「両極性」である。
たとえば、
宮殿と牢獄
動乱と静寂
群衆と孤独
そういった両極端な要素が、作品の端々に見られるのだ。
じっくり鑑賞すれば、ほかにも様々な両極性が見出せるであろう。
この作品の場合、それぞれ相反する極限状況を背景とすることによって、皇帝である溥儀の「人間性」が浮かび上がってくる仕掛けになっている。
だから、彼の心情を言葉として語る必要が全くない。
それは映画の随所から、手に取れるような心象風景として伝わってくるから。
ちょうど日本の夏場を襲った、気だるい湿気のように。
両極性がもたらす壊滅的な偉業
「両極性」について、もう少し話を進めていこう。
「ラスト・エンペラー」に限らず、名作と呼ばれるものには必ずこの「両極性」が存在する。
背反するものが交わりあうことで、爆発的なカオス(混沌)が生まれる。
その昂揚感と緊迫感は坂道を転がり落ちる岩のごとく、先の見えぬ状況へと我々観客を巻き込んでゆく。
名画だけでない。
芸術作品はもちろんのこと、世界中に名を轟かせた偉大な作品、偉大な人物、偉大な事件には、必ず「両極性」が備わっている。
「両極性」には、大いなる矛盾が生じる。
従って、尽きない議論へと発展しやすい。
とりたて「正解」だけを目指して、それ以外を排除する学校教育にとって、両極性は単なる厄介ごとに他ならない。
また「正しさ」や「正義」のみを理屈や数の上ではじき出し、そこから外れたものを脂身のようにキレイに削ぎ落とす民主社会にとっても同様だ。
しかし混沌こそが自然の本質であるように、矛盾こそが人生の本質である。
それを受け入れた時、あなたの人生のつっかい棒はスルリと取れ、人生に同化する。
賢者であると同時に愚者であり、聖人であると同時に罪人なのだ。
逆説的に言えば、愚かで罪深いほど、そこから本質的な学びと真の救いが得られる。
驚異の音楽
そうした両極性が生み出す破滅的な昂揚感と緊迫感。
それを最も体現したものが、坂本龍一さんの手がけられた音楽だ。
それがこの映画、第三の特別な要素である。
そのスリリングなオーケストラサウンドは、あたかも時代の潮流のごとく、なし崩しに物語をグイグイ引っ張り倒していく感がある。
まるでこの音楽の響きが皇帝溥儀の人生を翻弄させ、追い詰めていくようだ。
この危機感を煽ったサウンドの中にも、相反する両極性が確実に聴き取れる。
「ひどく爆発的な感情」と「物事に動じない毅然とした精神」である。
前者は「時代の荒波」であり、後者が「皇帝溥儀の立ち振る舞い」だ。
また、前者が本作を手がけたイタリア人監督の資質であり、後者が坂本龍一さんの資質であることは言うまでもない。
激動の音楽、そして激流に押し流される物語。
ふと皇帝溥儀の人生に自分が重なり、この9ヶ月間、僕の身の上に降りかかってきた数々の困難がオーバーラップした。
しかし音楽と物語が渾然一体で動き出すと、そこから悲劇的な色合いは消え失せ、むしろ無常観が浮かび上がった。
その途端、大いなるパワー=生命力が自分の中にもたらされるのを感じた。
まるでこの映画が、僕を力強く鼓舞してくれているかのように。
その後も音楽が映画を支配するたび、僕は高貴なる山頂に引き上げられたかのごとく、歓喜にむせび泣いた。
驚異の生命感
「生命力」「生命感」を描いていることが、第四にこの映画を特別なものとしている。
一見、そこで矛盾が生じる。
というのも、ピーター・オトゥール扮する家庭教師を除き、皇帝溥儀自身や彼に関わった者たちが次々と不幸な結末を迎えるからだ。
溥儀は自殺未遂を図り、夫人は阿片中毒で廃人と化し、家来は投獄され、戦犯収容所所長までも捕らえられる。
しかし「生命感」=「生き生きしたもの」という一面的な解釈自体が、矛盾を引き起こしているに過ぎない。
だれもが皆、それぞれの状況で命をつないでいく、その生命感をこの作品では描いているのだから。
名のある者、なき者を問わず。
皇帝も罪人も問わず。
ラストエンペラーからのメッセージ
張り詰めた4時間。
見終えた頃には、なぜだか不思議な安らぎを覚えた。
寝不足や疲労感は、どこかにいってしまった。
代わりに「自分がここに在る」というパワフルな感覚が呼び戻された。
見るべき映画である。
とりわけ経営者や家長の方々は。
会社なり家庭なり守るべきものを背負って先を見通し、リーダーシップを発揮していかなければならない方々にとっては。
映画「ラスト・エンペラー」は、あなたに2つのものをもたらしてくれるだろう。
深い叡智と、腹の底から湧き上がってくるパワーを。
僕はこの映画から学び取った。
生命そのものが即ち、究極の両極性であることを。
なぜなら人生は「誕生」そして「死去」という相反する要素を内包しているから。
「死」という避けられない通過点が待ち受けていると知りつつ、我々にできることは今をひたすらに生きることだけ。
それは、ちょうちんひとつ灯して真っ暗闇の山道を越えていくようなものである。
見えているのは足元のほんの数歩先だけ。
先にどんな出来事が身を潜めていようとも、歩を進めて生きていかなくてはならない。
ちょうちんの油が切れるまで。つまり我々の寿命が尽きるまでは。
中国史上最後の皇帝溥儀の姿を借りて、そういうことをこの映画監督は訴えたかったのかもしれない。
少なくとも、僕はそう解釈した。
心の耳を澄ませば、あなたにも聞こえるだろう。
スクリーンを超え、悠久の歴史の彼方から届く叫び声を。
今を生きろ、不自由な身の上でも。
今を生きろ、名誉が汚され、恥辱にまみれても。
今を生きろ、生きる目的を失っても。
今を生きろ、ただそこに在るために。
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