今日、トップニュースで報じられた坪井直(96)さんの死去。
被団協(日本原水爆被害者団体協議会)代表として、核兵器廃絶や被爆者援護に尽くされ、世界平和に貢献してこられた坪井さん。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
どうぞ安らかにお眠りください。
ひろしまメモリアルコンサート
坪井さんとのご縁は、僕の亡き母が生前に企画・主催した「ひろしまメモリアルコンサート」での共演がきっかけでした。
ひろしまメモリアルコンサートとは
原爆の日さえ忘れられている現実に危惧した美美の環スタジオ代表松原リディア美江が、被爆の実相を風化させず、美しく蘇った広島から音楽と講演を通じて世界平和を訴えるべく、2004〜2010年に企画・主催した美美の環コンサート。同時に、リディア美江が被爆証言を独自取材した被爆体験記「あの日私は」「これからの平和を目指して」を自費出版して無料配布、当時のオバマ大統領宛てにホワイトハウスへも送付されました。
ひろしまメモリアルコンサートの動画です。
母の声
7年間に渡って開催した、僕ら美美の環スタジオの「ひろしまメモリアルコンサート」
当時、坪井さんは既に80を超えたご高齢で、国内外と飛び回ってご多忙でした。
にもかかわらず、最優先にスケジュールを確保してくださり、全公演に参加して被爆体験を語ってくださいました。
その講演の中から、とりわけ感動的なエピソードをご紹介しましょう。
まだ学生だった坪井さんが被爆したのは、爆心地から1キロあまり。通学途中でした。
かろうじて息のある被爆者たちは、広島港の沖合にある似島(にのしま)の病院へ収容されました。
その中でも、坪井さんが収容されたのは、助かる見込みのない患者たちの病室。
そんなこととはつゆ知らず、坪井さんのお母様は、行方不明になった息子を探すのに必死でした。
やがて似島の病院のことを聞いたお母様は、一縷(いちる)の望みをかけて似島へ渡ります。
ところが院内は、どこも身元不明の被爆者だらけで、何千何万人とぎゅうぎゅう詰めです。
「直や〜!いたら返事して〜!」我が子の名を絶叫して、各病室を巡られたお母様。
坪井さんは、まだ意識不明の重体でした。
にもかかわらず、母親の声に体が反応したのでしょう、自然と片腕が上がり、自分の居場所をお母様に知らせたのでした。
母と子の絆が引き寄せた奇跡ですね。
こうして実家へ連れ帰られた坪井さんは、手厚い看護によって命を取り留めましたが、その後の76年間は常に死と隣り合わせでした。
何度も入退院を繰り返し、時には血圧がゼロになったことも。
それでも持ち前のタフな精神力で、中学教師となり、校長先生まで務め上げられ、定年後は被団協の代表として精力的に国内外でご活動されました。
オバマ大統領の広島訪問の折に、大統領と語らう坪井さんのお姿を、テレビ報道で目にされた方も多いことでしょう。
意外な素顔
知り合う以前から、坪井さんのお顔は、いつもテレビで拝見していました。
諸外国で核実験が繰り返され、核兵器にまつわる話題が報道されるたび、坪井さんからのコメントが添えられて放送されたものです。
そこに映し出された坪井さんは、語気荒く核兵器を否定され、平和への願いを訴えかける「戦う男」でした。
ところが坪井さんと実際にお会いしてみて、その印象は一変します。
僕の目の前にいたのは、おおらかで笑わせ上手の、ひょうきんな好々爺でした。
坪井さんの元へご挨拶に伺った時のこと。
ご多忙なお偉いさんに時間をとっていただいて、ひたすら恐縮していた僕と母に、坪井さんは打ち解けてこう語ったものです。
私なんてみんなの小間使いのようなものですから、全然偉いことなんかありゃしません。
平和団体間の板挟みになったり、被爆者二世三世たちから「国に訴えかけて欲しい」と寄せられる要望の山を捌(さば)いたり、気苦労の種ばかりでねぇ。
そう言ってくだけた口調で、ユーモアたっぷり笑わせながら、場を和やかにしてくれる坪井さん。
その生き様は、フランクル博士の名著「夜と霧」の中で、アウシュビッツ収容所から生還できた人々に共通する感性と相通ずるものを感じました。
坪井さんの立ち振る舞いを見て、僕なりに学んだことがあります。
なるほど、学校長だったり組織のトップに立つ人物に必要な資質とは、まず胸襟を開いて、和やかに相手と渡り合うことなのだなぁと。
等身大の自分であること。
相手の心に架け橋を渡すこと。
心の内を素直に明かすこと。
坪井さんのようなロールモデル(=お手本)が身近にいたおかげでしょう。
その生き様は、今こうして音楽スタジオで2代目代表をやってる自分の糧となっています。
男の激励
音楽家の使命
僕自身も、平和について、争いについて、自分なりに持論を持っています。
でも、それを世の中へ向けて、直に発信することはありません。
なぜなら音楽家とは、歌詞や曲作り、ステージ演出の中で、そうしたメッセージ性を織り込んだものを鑑賞していただくことが本来の使命だと考えているからです。
闘争と平和は、国家間で生ずることであると同時に、人の内面で生ずることでもあります。
それを作品作りに取り込めるのが、僕らクリエイターの利点です。
例えば、個人的な恋の喪失感を歌った作品と見せかけて、そこに荘厳なテーマを潜ませることもできるというわけ。
リスナーが深読みするにつれて、作品も深く成長してゆけるのです。
闘争や平和へのメッセージに関しても同様に、創作活動を通じて、クリエイティブな観点から、視覚的、聴覚的、言語的にオーディエンスに訴えかけていくことができます。
それを受け取るオーディエンス側は、音楽や歌詞、ステージ演出を体感しながら、実は争いと和解についての一大叙事詩を味わえるのです。
そんな僕の舞台姿を、ずっと客席から目にされて来られた人がいました。
坪井さんです。
忘れられないエピソード
最後に共演した時のこと。
リハーサルが無事に終わり、客席も埋まって、開演直前でした。
坪井さんが客席をくぐり抜けて、フラリと僕の前までやって来られたではありませんか。
そして、前置きなしに、いきなりこう述べられたのです。
「私はね、あなたに一目置くどころじゃない、二目も三目も置いて、尊敬しとりますけぇの」
そう力強く言うと、坪井さんは僕の手をがっちり握りしめてくれたのです。
胸にゴンと響きました。
そもそも大の男が、大の男を認める、それも年下の男性を認めるなんて異例なこと。
僕の音楽家人生において、最大の祝辞でした。
立つ鳥 跡を
それにしても、人間とは、相手の心の中に何かを残していく存在なのですね。
生きて前進する勇気を与えてくれる人もいれば、そうでない人もいる。
願わくば僕も、坪井さんのように前者の側の人間であれたらいいな。
ラストメッセージ
76年間、常に死と隣り合わせでありながら、なお生きることを諦めず、自身の限界に挑んだ坪井さん。
誰しも欠点があることを認めつつも、ユーモアを忘れず、人生から学び続けた坪井さん。
そんな坪井さんから昨年いただいたラストメッセージを、最後にご紹介しましょう。
老い続けて九十五歳。
森羅万象の本質を知らず残念。
しかし、最大に守りたいのは平和への道。
ネバーギブアップ!
似島沖で船上から観客とともに海へ献花しました
◾️ヒデキマツバラオリジナル音源◾️
チベットの鳥葬からインスパイアされた哀愁のピアノバラード🦅
◾️ヒデキマツバラLIVE動画◾️
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