奇跡の夏

よその街に暮らしていたら、それらはごくありふれた夏の日の情景かもしれません。
でも、色や音を失くして生命の痕跡さえない80年前のヒロシマを知る人々の目に、今の広島は信じられない奇跡に映ることでしょう。
被爆から80周年を迎えた今日、そんな奇跡の中に生きていることを、ここ広島で実感しています。
今日の記事では、僕がずっと大事にしてきた1枚の写真を取り上げましょう。
その写真はヒロシマと無関係なはずなのに、ヒロシマを感じさせるものが写っているのです。
プラハで目撃した無傷の原爆ドーム
その日は、中心街のホテルからタクシーで郊外を目指していました。
車窓からは、スメタナ作曲の交響詩「モルダウ」の名でも知られるヴルタヴァ川の優雅な流れ。
突然、目に飛び込んできた建物に目を見張りました。
夢中でシャッターを切りました。

一体これが何の建物だか僕には知りようもありませんが、強い既視感を覚えました。
ドーム状建築物ならヨーロッパ各国で数多く目にしてきたのに、ここまで原爆ドームを直感させたドームは後にも先にもありません。
日本から9000kmも彼方、ボヘミアとして知られるヨーロッパ大陸のど真ん中に位置する旧共産圏の古都にいながら、原子爆弾を落とされる以前の原爆ドーム前へとタイムスリップした心地でした。
その外観は「被災を免れた原爆ドーム」あるいは「原爆ドームの生き別れた双子ビル」のように瓜二つ。
80年前、もし広島に原子爆弾が投下されなければ、今もこんな建物が広島中心街にそびえていたのかもしれないと思わせるに十分でした。
被爆以前のドーム写真資料
その外観からプラハで原爆ドームを想起したのも、生粋の広島っ子である所以でしょう。
というのは、僕ら広島人に馴染み深いのが、被爆以前のドームの姿をとらえたこのモノクロ写真なのです。

原爆ドームは、もともと「広島県物産陳列館」という建物でした。
地元広島の物産品を広める目的で、明治末期に着工、6年の歳月をかけて1915年に竣工・開館しました。



設計士レッツェルの半生
もしかすると、チェコと原爆ドームには何か関わりがあるのかも知れない。
帰国後、さっそく原爆ドームについて調べてみたところ、納得の発見がありました。
その名はヤン・レッツェル。
彼の半生をかいつまんで見ていきましょう。

レッツェルは祖国で建築を学び、チェコ近代建築の重鎮として知られたコチェラ教授に師事、地元ホテルや温泉保養地の設計に携わります。

27歳で来日した彼は、日本各地で西洋建築物を手掛けていきます。現在の貨幣価値に換算すると、設計1件あたりのギャラが数千万円クラスだったとか(!)
広島県物産陳列館を設計したのは35歳の頃でした。
日本とドイツのハーフである5才の子を養女に迎えながら日本で設計活動を続けるも、第一次世界大戦のあおりを受け、敵国人として設計事務所の閉鎖を余儀なくされます。
その後、チェコ通商代表として日本大使館に務めたり貿易商を営んでは、日本に関わり続けました。
ところが43歳で関東大震災に遭ったことにより全財産を失って帰国、そのまま病のうちにわずか45歳で他界。
経歴を調べてみた限り、例のプラハドームは彼の設計ではなさそうです。
おそらくレッツェルと同時代のチェコ人設計士か、恩師コチェラ教授の系統を継いだ設計士が手掛けたものと考えて良さそうでしょう。
それにしても、レッツェルの短い生涯は、なんと栄光と失意に満ちたものでしょうか。
異国の地、日本で数々の有名建築を手掛けるも、大戦勃発という時代の波に翻弄されて本職を失い、もれなく関東大震災まで遭遇して早逝するとは。
でも心を込めて設計した建物へ、原爆が投下されるのを知るほどに長生きしなかったのは、むしろ幸いだったのかも知れません。
祈りの1日

8月6日が巡ってくると、原爆投下時刻の午前8時15分に手を合わせて黙祷します。
犠牲者のためにお線香を焚き、猛烈な渇きで川に殺到しつつ力尽きた人々を思いながらお水を供えます。
そうして、残る1日は、ただ、ただ静かに過ごします。

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