前回の記事に続いて「涙のトッカータ」について書いていきます。
hidekimatsubara.hatenablog.com
トッカータの涙
「涙のトッカータ」を編曲していく上で、着目したのがタイトルです。
それは一体どんな涙なんだろう?と。
そこを切り口に、サウンドデザインのアイディアが膨らんでいきました。
ポロロロロンという玉のようなシンセ音のフレーズは、まさしくこぼれ落ちた涙を表現しています。
ライブ動画で確認してみてください^^
【ポール・モーリア】涙のトッカータ / Paul Mauriat - Toccata / ミュージックハウス美美の環
花は花でも
意外なことに、この曲の原題は単に「トッカータ」とシンプル。
邦題「涙のトッカータ」は日本独自のニュアンスなのです。
比べてみると印象が全然違いますね。
「花」と「バラの花」が違うように。
「女」と「愛しい君」が違うように。
楽曲に限らず、映画タイトルにしても、昭和時代の作品は邦題が美しいですよね。
ドラマティックで深くて、ネーミングした方の奥ゆかしく豊かな感性が偲ばれます。
出会いの音楽
ライブ動画の最後で、母がこの曲にまつわるエピソードを語っています。
ここでさらに詳しく紹介していきましょう。
それは僕が生まれるよりも前。
母がまだ独身の頃でした。
偶然テレビで耳にした曲が、母の胸を打ちます。
それがこちらでした。
涙のトッカータ ポール・モーリア Toccata Paul Mauriat
なんていい曲なんでしょう!
と感激した母は、すぐテレビ局に問い合わせます。
「あの素敵な曲は、誰のなんという曲ですか?」
母のことですから、自分がピアノ弾きであること、そしていつかステージで演奏したいことも相手に告げたのでしょう。
受話口のテレビ局事業部スタッフから、思わぬ申し出がありました。
「楽譜があるので差し上げますよ。取りにいらっしゃい」
母は嬉しさのあまり、いてもたってもいられません。
その足ですぐタクシーに乗って、テレビ局に駆けつけました。
美美の環スタジオの先代である母、その行動の早さを物語るエピソードですね^^
僕も二代目として見習わねば!
こうしてポール・モーリアの音楽と出会った母。
夢中でレコードや楽譜を買い集めては、ポール・モーリア・オーケストラの来日公演に毎年駆けつけました。
そして美美の環コンサートの定番レパートリーになったのは、言うまでもありません。
男と女の友情
「涙のトッカータ」をきっかけに、母には新しい友情が芽生えました。
あの受話口の男性スタッフです。
時代は高度成長期真っ只中の昭和40年代。
かたや音楽教室講師、かたやテレビ局事業部スタッフ。
心から愛する音楽芸術、それを広く一般に紹介して、市民文化を発展させていきたい!
その熱き志で意気投合した二人は、親交を育んでいきました。
僕が生まれてからも、様々なアーティストの公演を聴きに週2〜3日はコンサート通いをしていた母。
そのチケット購入のためテレビ局を訪れるたび、音楽談義でその方と盛り上がったみたいです。
時には入手困難なチケットを確保してもらったこともあったようで。
また、売れ行きの悪いチケットを母が大量に買い取ってあげては、レッスン生に配りまくったのだとか。
お互いの立場で助け合ったんですね。
僕が高校生だったある日、帰宅したところ、母がこんな話をしました。
街で買い物帰りにバスを待っていると、偶然その方が車で通りかかって声をかけてきたそうです。
「ご自宅まで送ってあげましょう、乗ってください」
実はその方、母に個人的な好意を抱いていたようです。
「もしあの時あなたが結婚されてなければ、プロポーズしていたところでした」と告白されたのだとか。
でもその方はとても紳士な方でしたから、その後お互い変に意識し合うこともなく。
「多分、前世で自分のお兄ちゃんだったんでしょうね」と母。
こうしてその方がテレビ局を定年退職されるまで数十年間、二人は親交を温めました。
砂の城
ネット予約もメール交換もなかった当時。
1つの楽曲と、それにまつわる友情。
それは海辺の波がさらっていく砂の城のように、取るに足りない小さな出来事かも知れません。
でも、今のIT時代にはないアナログなきっかけと人間模様の機微がまぶしくて、なんだか僕は憧れてしまいます。
最後にもうひとつのエピソードを。
あの日テレビ局からの帰り、母は「涙のトッカータ」の譜面を宝物のように抱きしめながら帰途についたそうです。
きっと母にとって「うれし涙のトッカータ」だったのでしょうね。
■今月のライブ動画■
雨のニューヨークにインスパイアされた哀愁ハウス「ブルー・マンハッタン」をアップしました!