前回記事でドラネコについて書いてるうち、面白いものに発展していったので、記事を独立させました。
前回記事はコチラ
ドラネコの意味合いを一変させたあのキャラ
その昔「ドラ」という言葉は蔑称であり、相手を軽蔑したり罵倒する際に使われていました。
「ゴロゴロしてばかりのドラ息子が!」「この盗っ人ドラネコめ!」という具合。
ところが1980年代を迎えた矢先、この言葉の意味合いを変化(へんげ)させることになる人物が現れます。
日本人なら誰もが知る人物。
その名は、野比玉子さん!
そう、のび太くんのママ^^
あの「ドラちゃん」という呼びかけが、言葉の意味をひっくり返しました。
そこには本来「ドラ」という言葉の持つ不届き者への非難がないどころか、愛する者への慈愛が込められていたからです。
野比玉子さんのセリフをきっかけに、言葉のニュアンスは変化しました。
実際あなたも、ドラネコ=泥棒猫ではなく、何だかお気楽なネコをイメージしませんか?
それにはアニメ番組「サザエさん」オープニングテーマも一役買ってるかもしれませんね。
お魚くわえたドラネコ〜♪
ドラえもんは厄介者だった
連載開始当初、ドラえもんとのび太くんの役割はあべこべでした。
そんなドラえもんが未来の便利な道具を取り出すたび、野比家は巻き添えになりました。
つまり野比家に居候した当初のドラえもんは、ドラネコのように厄介事をもたらすはた迷惑な存在だったわけです。
そのドタバタ感を楽しむギャグ漫画、という体裁でした。
ドラえもんが家族の一員に
連載が進むにつれ、次第に両者の立場が変わっていきます。
2度目のアニメ化で人気が出た頃には「ダメダメなのび太くんのピンチを愉快に救うドラえもん」という構図が成立。
両者の間に友情さえ芽生え、ドラえもんは野比家の一員になります。
それを象徴していたのが、野比玉子さんの「ドラちゃん」という呼びかけでした。
おやつや食事を知らせる時の「ドラちゃ〜ん」
困った時の「ねぇ、ドラちゃん」
怒った時の「ド・ラ・ちゃん!」(笑)
それで僕らにはわかったのです。
千々松幸子さん*のあの声に、僕らは家族愛を感じたのです。(*野比玉子役を26年担当した声優さん)
核家族化時代の救世主
最後に、社会学的な時代考証からドラえもん人気の秘密をひもといてみましょう。
というのも、作者の藤子・F・不二雄さんは当時、1980年代の子供たちが置かれていた社会世相に同情の眼差しを注ぎながら、マンガに反映されていたからです。
かつて家族というものは、農村で三世代が同居しながら役割分担して、自給自足で生活していくのが当たり前でした。
ところが1960年代に始まった高度経済成長は、日本人の暮らし方だけでなく、家族の形まで変えました。
親元を離れ、都市に移り住んだ若者たちが新たな家庭を築き、核家族化が進みます。
やがて日本で最も子供の多い時代を迎えると、その弊害が様々な形で現れました。
とりわけ子供たちの暮らしに影響を及ぼしたのは、夫婦共働きと受験戦争でしょう。
ひたすら景気は上向き、生活が豊かになっていくばかりの時代に、なぜこんなことになったのか、順を追って見ていきましょう。
核家族化によって、妻1人に家事と育児の負担がのしかかるようになりました。
自給自足のできない都市生活はお金もかかりますから、共働きを余儀なくされる家庭もあります。
母親が子供と共に過ごす時間が減っていき、鍵っ子が増えていきます。
三世代が同居していた時代の豊かな愛情など、子供たちには望めるはずもありません。
暮らしが豊かになるほど、子供たちは愛情に飢えてゆきました。
でも我が子を愛してない親なんていません。
むしろ親たちは子への愛情ゆえ「子供に将来こんな苦労をさせたくない」と願います。
それが歪んだ形で現れたのが、受験戦争でした。
終身雇用制が機能していた当時、一流企業に入れば一生涯の暮らしが保証されます。
そこで親は我が子を受験戦争に駆り立て、小学生のうちから一流校、一流大学目指して連日連夜、塾通いをさせるのでした。
こうした時代背景の中、愛情不足で勉強に追われる子が増えるほど、ドラえもん人気は高まっていきました。
当時の子供たちは、野比家の団欒(だんらん)の中に、理想の家族生活、あるいは理想の家族愛を見ていたのかもしれません。
やがて映画化されたドラえもんは、映画の中で地球をも救うヒーローになりました。
でもドラえもんが本当に救ったのは、親の愛情に飢えた80年代の子供たちだったのではないでしょうか。
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