事実は小説よりも奇なり。
この2月から3月をまたいだ週のことであった。
その間、僕はあらゆる種類の感情を経験した。
これほど劇的な家族物語に満ちた極限の1週間は、過去に例がない。
それはまるで映画かドラマの中に生きているようだった。
違和感
2月最後の週、母が入院した。
いや、入院させた。
12月に倒れて以来、通院さえも頑なに拒み続けていた母。
「もう永久に家に戻れない症状だと自分でわかってるから」
それが母の言い訳。
僕は懇願した。
時に柔らかく、時に厳しく。
1月、ついに僕が采配を振るう時がきた。
母の命を救いたいから。
力づくで病院へ連れて行く覚悟で、母を車に乗せた。
それが母に付けられた病名だった。
それが昨年10月からずっと母を苦しめてきたものの正体だった。
2月、処方された薬の効き目が現れ始めたのだろう。
少しずつ食欲を増し、牛歩のごとくだが回復の兆しを見せ始めた母。
ところが神経の回復傾向とは裏腹に、母の体は衰弱の一途をたどっていった。
ふとん越しに浮かび上がるその体は、どんどん小さくなっていく。
血の気が引いた蒼白な顔面は、風前の灯火。
その眼差しは冥府の入り口を見ていたに違いない。
入院宣告
月曜日。
二度目の采配を振るう決定打になったのは、 不意に目にした着替え中の母の体だった。
そこにはあるべきものが欠けていた。
太ももが、ない。
太ももの筋肉が削ぎ落とされたかのように、全然なくなっていたのである。
それはもはや脚とは呼べない、棒っきれでしかなかった。
腕も同じく、骨と皮だけ。
身体中の筋肉という筋肉が消失していた。
さらに悪いことに、床ずれまで表れている。
今、手を打たないと、取り返しのつかないところまで行ってしまう。
火曜日。
意を決して、強硬的に母を内科に引っ張っていく。
点滴中に寝入った母をよそに、診察室で僕は内科医に訴えた。
「先生、お願いです、入院させる方向で動いてください」
水曜日。
紹介された総合病院でCT検査。
結果は明白だった。
消化器と循環器の機能不全。
1日24時間のうち23時間ずっと病床に横たわる生活を2ヶ月続けた結果、母の体は身体リズムがすっかり崩れてしまっていたのである。
寝ている状態=副交感神経が優位な状態が長期間続くと、どんな弊害があるか。
それを僕はまざまざと目撃した。
無重力空間に長期間滞在する宇宙飛行士の体と同じことが起きるのである。
だから宇宙飛行士は毎日運動をして身体機能を維持する。
では維持しなければどうなるのか。
僕の母のようになるのである。
車で病院に乗せて行くだけで、母の血圧は異常な値にまで跳ね上がった。
そして病院での長い待ち時間、3ヶ月ぶりの人混みに、母は座っているだけで意識が朦朧として気が遠くなった。
異変を察知した僕は、急遽ソファーに横たわらせた。
通りすがりの熟年看護師の機転により、診察待ちの間、処置室のベッドで休ませてもらうことができた。
「入院して治療していきましょう」
検査結果を前に、主治医が母に告げた。
あらゆる点で、前日の内科医から総合病院の主治医への引き継ぎは完璧だった。
ところがここで母の口から思いもしなかった言葉が飛び出した。
「いやです。家にいたいです」
今までいかなる時も医師の忠告には従順に従ってきた模範的な母が、生まれて初めて反旗を翻したのである。
もはや僕の知る母ではなかった。
最後の説得
「私どもには入院する意志のない患者を強制的に入院させる権限がありません」
主治医は弱った顔で僕を見た。
「今後の治療方針をスタッフで検討しますので、外のソファーでお待ちいただけますか」
あぁ、医学の権威の説得も母には効かないとは。
僕は絶望した。
それでも僕は諦めなかった。
「入院すれば、それだけ少しずつ体がラクになっていくから」
診察室の外で母への説得を続ける。
「だから、ね、早くラクになろ?」
僕は自分がこうありたいという欲求や欲望に関しては、諦めの早い男である。
時間の無駄を嫌い、こだわりを潔く手放して先へ進む。
ところが不思議なもので、人が求めてるもの、まして家族が必要としているもの(この場合は母の健康)となると話が違ってくる。
なんとかしたくて手段を講じて人々に働きかけ、最後まで諦めない。
そんな僕の気質を知ってか知らずか、やがて母は僕の目を見据えた。
「また家に帰れる?」
「うん、もちろん」
頷いた僕に、母が告げた。
「先生に伝えて。入院しますって」
涙の勝利
その日、母の応急処置の間、僕は約束してあった5月公演の宣伝活動で、一旦その場を離れざるをえなかった。
スタジオに戻る車のフロントガラスに雨粒が落ちてきた。
それは誰が落とした涙だったのだろう?
夕刻、5匹の猫に餌をやってから、僕は病院に戻った。
「今すぐ家に帰りたい」
病室に収まったばかりの母が同じことを繰り返す。
「うん、だからここで入院して、体の調子を整えてから家に帰ろ」
そう言ってなだめる僕。
「今すぐ家に帰りたい」
駄々っ子のように繰り返す母。
相変わらず小雨がぱらつく中でひとり帰宅。
長い長い1日だった。
鍵を開けると、電気毛布の上で固まってた猫たちが出迎えてくれる。
「ただいま。お母ちゃんね、入院したよ。みんないい子でお留守番してようね」
みんなママっ子だから、沈んだ表情の猫たちが哀れに思えてならなかった。
僕は5つの皿を用意すると、いつもより多く三種類のキャットフードをよそった。
暖炉に当たっているような暖かい病院と違って、家の中は寒い。
人一人いなくなるだけで、こんなに寒くなるものだろうか。
震えながらコートを脱ぐと、どっと疲れが襲ってきた。
これまで72日間続いた介護生活でさえ、こんなに気疲れしたことはなかったのに。
風邪でもひいたんだろうか?
親戚に電話報告しなきゃ。
返さなきゃいけないメールもたまってる。
だめだ。
何をする気力も湧いてこない。
機械的に台所に入り、夕食を作って食べ、入浴。
そこから先、どうやって寝入ったかまで覚えていない。
でも脱力しきった心身と共にあって、僕の魂の中にあるのは勝利と喜びだった。
この2日間、自分が主導権を握って采配を振るったことで、流れは変わった。
良い方向へと。
確実に。
(続く)
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