人生とは時に不思議な巡り合わせと、類まれな気づきをもたらす。それも、ごく身近な日常の只中で。
ドライアイス製造マシーン
スーパーマーケットへ買い出しに出た朝。レジで会計を済ませた家族と落ち合い、僕はドライアイス係を任された。
ドライアイス製造マシーン。
それは、アイスクリームの入ったビニール袋をセットし、専用コインを入れるとドライアイスが降ってくるという、あの機械のことである。
それは、プシューという音が止んで扉を開けると、気化したドライアイスの煙がたちこめ、ちょっとした舞台効果のようなレクリエーションが味わえる、あの機械のことである。
それは、いつの間にやら、どこのスーパーにも常置され、「開店当初からここにいますが」とでも言わんばかりの顔をしている、あの機械のことである。
それは、万が一にも手順を間違った場合を想定すると、安全なんだか危険なんだか得体が知れず、当初、潜在的にあまりお近づきになりたくなかった、あの機械のことである。
それは、いざ使ってみれば、ビニール袋の持ち手を突起に引っ掛けるアナログ感といい、利用者自身で扉を開閉するセルフサービス感といい、なるほどスーパーにあって然るべきものだと納得できる、あの機械のことである。
花咲か婆さん
まだ朝も早かったせいであろう。ドライアイス機の周辺は、ついぞひと気がなかった。ところが早速セッティングを始めた矢先である。いつの間に並んだのだろう。まるで天から降ってきたように、真後ろに誰か立っている。
「すみませんが」
声の主を振り返ると、カートを引いた小さな丸っこいおばあさん。見るからに人が良さそうだ。着ているものは、昔風の古びた羽織に冴えないモンペ、頭には大きな帽子。こんな街中にそぐわない出で立ちは、まるで古い童話の絵本から切り取ってきたよう。
このおばあさんが、実に愛すべきオーラを放っている。そばにいる者を安心させ、誰の心をも解きほぐす不思議な魅力をたたえながら。例えて言うなら、花咲か爺さんの女性バージョンだ。
途端に「まんが日本昔ばなし」のアニメ主題歌が頭の中を駆け巡る。市原悦子さんのナレーションまで聞こえてきた。
白い心づけ
むか〜しむかし、あるところに、人のいいおばあさんが住んでおりました。
ある朝、おばあさんはスーパーマーケットへ買い出しに出かけました。
おばあさんには好きな食べ物が、たんとありました。とりわけ大好物なのがアイスクリームです。今朝は特に半ダース入りの抹茶アイスボックスを奮発することにしたのでした。
さて、おばあさんには悩みがひとつありました。ドライアイス製造機が操作できないのです。
店員もまばらな早い時間帯でした。心優しいおばあさんは、わざわざ誰かを呼び止めてまでドライアイスが欲しいとは思いません。
(急いで家路につけば、そう大して溶けはしまいよ。)
そう思ってみたものの、レジでドライアイス専用コインを手渡された時、おばあさんはため息をつかずにいられませんでした。
(こうも機械が苦手でなければ、冷たくておいしいアイスクリームが食べられるのにねえ。)
清算を済ませたおばあさんが、商品を買い物バッグにつめていた時です。雪のように真っ白な肌をした若者が、ドライアイス製造機に向かって行くではありませんか。
(そうだ、あの若者にお願いしてみるとしよう。)
おばあさんは買い物バッグをカートに収めると、急いで若者の後に付き従いました。
「あの、申し訳ないんだけんど」
おばあさんは若者に語りかけました。
「私にもドライアイスを入れてもらえましょうか? コインならここにありますけぇ」
振り向いた若者は事情を察して、快く答えました。
「そんならお安い御用だべ。オラのが済むまで、ちょっくら待ってくんろ」
若者は自分の用を済ませると、おばあさんからアイス入りのビニール袋を預かりました。そしてコインを受け取ろうとした時でした。若者はおばあさんの掌を見つめずにはいられませんでした。
おばあさんの掌が光っているのです。いや、光っているのはコインでしょうか? それともおばあさん自身でしょうか?
若者はそっとおばあさんから受け取ったコインをしげしげと眺めました。
(なんの変哲もねぇ、普通のコインだべ。すると、光っていたのは、やっぱり。。。)
そんなことを考えながらおばあさんの用事を済ませ、若者はドライアイス入りの袋を手渡そうと振り返りました。
ところがどうしたことでしょう。おばあさんは受け取ろうとしません。カートに載せた買い物バックの中を探るばかりです。
それはほんの20秒ほどのことだったでしょうか。でも若者には長く感じられ、少し途方にくれました。
やがて、おばあさんは若者に何か差し出しました。
「ありがとうさんでした。これをお持ちなさいな。」
それは、さっきおばあさんが買ったばかりのカブラ漬けでした。おばあさんにとって、アイスクリームの次に大好物だったに違いありません。それを、おばあさんは若者への恩返しとしたのです。
(いや、そりゃあなんねぇだ。大したこともしとらんのに、こったらことをされちゃあ、オラかえって申し訳ねぇだよ。)
若者はとっさにそう思いましたが、すぐに考えを改めました。
(オラにとっちゃあ大した用じゃなくとも、このばあさんにとっちゃ難儀な骨折りなんじゃろう。じゃから、恩に報いたいというばあさんの気持ちを無下に断っちゃ、かえって無礼になることよのう。それに、オラのような若者の口に合うものをと、ばあさんなりに気をつかったんじゃろう。その気遣いにオラは報いなきゃなんねえだ。)
そして若者は言いました。
「それじゃ、ありがたく頂戴つかまつります」
おばあさんはにっこり笑うと、カートを押して行ってしまいました。
意外な結末
こうして僕は、左手に我が家のアイスクリームの入った袋を、右手にカブラ漬けのパックを持って、家族と再合流した。思わぬ終章が待っているとも知らないで。
「なに、それ? どしたの?」
「もらった」
「なんで?」
「ドライアイス入れたげたら『心づけ』だって」
「誰から?」
「昔ばなしに出てきそうなおばあさん。ほら、あそこに座ってる人」
「えっ、あの人!?」
「知ってるの?」
「それがね、さっきレジの順番待ちで困ってたら、すごく親切にしてもらったのよ!」
そうなのである。そのおばあさんは、僕がそこに到着する前、僕の家族に親切を施して下さっていたのだ。そして今度は、そのおばあさんに僕が親切を施した。僕の手元には、雪のように白いカブラ漬け。不思議な縁である。
帰り際、家族ともどもおばあさんの元へ行き、数々の温情に改めてお礼を申し述べたのは言うまでもない。
開花
おばあさんは、あたたかい光を放っていた。それは、身なりや老いによって覆い隠されたり遮られたりすることのない輝きだった。おばあさんは富める光であった。
いただいたカブラ漬けは、えもいわれぬほど美味だった。その品のある味わいと、絹のような柔らかさ、溶けていくような喉越しは、まごうことなき天界の晩餐だった。
その雪のように純白な味をかみしめているうち、僕は思いやり以上の更なる恩恵を授かったことに気づいた。
つまり、傍目には僕がそのおばあさんに親切にしてあげたようには見えるが、実はそうではない。僕はおばあさんを通じて「人に親切にする」という機会を天から与えられたのである。
この先進的と言われる物質主義社会に生きていると、「人の価値」はしばしば物質的な成功度合いによって量られる。ただ、その種の成功は往々にして、たゆまぬ努力を要し、相応の心的ストレスを伴う。あなたは不安や恐怖を相手取り、力尽きるまで果てなき長距離レースを続ける。追い抜いても追い抜いても、次々と新手の不安が現れ、追いつかれ、追い越される。
でも、そうやって自分の価値を証明しなければならない生き方とは別の生き方がある。何も特別なことをする必要はない。ただそこに存在しているだけで、あなたは誰かの役に立てるのである。ドライアイス製造機でほんの些細な人助けをした僕のように。価値とは行為と努力が化学反応して生ずるものではない。あなたの存在そのものに価値があるから。あなたの掌の温もりが誰かを寒さから守り、あなたの愛ある志が誰かを闇から光へ振り向ける励みになるから。
その時、あなたは物質体を超えた成功そのものになれる。この宇宙で、あなたという唯一無二の価値に気づけたのだから。それが真の幸福へと通ずる扉である。
心が喜びで満開になった春の朝。
ありがとう、花咲か婆さん。
(写真/花咲婆さんからいただいたカブラ漬け)
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