今期の美美の環スタジオは、大人のピアノクラスに新規入会が相次いでます。
中には、ピアノ好きなら誰もが憧れるショパン「幻想即興曲」をきっかけに入会された方がいました。
リナちゃんのママ
保育園児のリナちゃんは、入会して丸１年。
どこか品があって、でも笑い声の絶えない明るい子で、愉快におしゃべりしながらレッスンします。
その受け答えの機敏さときたら、まるで９才か10才の子くらいしっかりしているのです。
宿題に出した課題曲は、お母様と一緒に練習してくるようで、毎週１曲ずつ順調に仕上がっていきます。
聞けば、リナちゃんのお母様は、昔ピアノを習っていたのだとか。
さて、リナちゃんがレッスンにやってくる前、僕には少し空き時間がありまして。
その隙間時間を利用して、ピアノの練習に勤(いそ)しんでいます。
暮れも押し迫ったある日のこと、リナちゃんを迎えにきたお母様がおっしゃいました。
「私もピアノを習い始めたいんです」
憧れの幻想即興曲
ピアノ好きなお母様は、高校に入るまで習っていたそうです。
当時ショパンのワルツなど弾いていたと言いますから、きちんとクラシックピアノの基礎を学ばれたことが伺えました。
それにしても、どうして今、ピアノレッスンを再開しようと思われたのでしょう？
お勤めをされながら、幼い２人のお子さんの子育てもあります。
それでもレッスン通いをしようと決意されたきっかけが、何かあるはず。
僕は好奇心を抑えきれず、詳しくお話を伺ってみることにしました。
すると、意外な答えが返ってきたのです。
「娘のレッスン前に、たまたまヒデキ先生が幻想即興曲を弾かれてて、それを聴いて私もピアノをまた始めたくなったんです」
普段は穏やかで物静かなお母様の口から、言葉があふれ出します。
「衝撃でした。ヒデキ先生の演奏は。てっきりCDが流れているのだとばかり」
一介のピアノ講師
僕の奏でていた幻想即興曲が、リナちゃんのお母様にピアノライフを取り戻させたきっかけ？
驚きました。
そして感激しました。
と同時に、リナちゃんのお母様のアンテナはすごいなぁと感じました。
テレビで見て、CDを聞いて、コンサートに行って、YouTubeで目にして、それがきっかけで始めたという話なら、皆さんもよく耳にすることでしょう。
でも、娘をピアノ教室に送ったところ、レッスン室から流れてきたショパンに惹かれ、親御さんまで入会を決意された、なんてとても珍しいケースです。
きっと普段からそのようにして、身の回りにあるささやかなものからも喜びと幸せを見つけることのできる方なんでしょうね。
１つ重大なことに気づきました。
もし僕が空き時間にスマホばかりいじってたら、リナちゃんのお母様がピアノを再開される日は来なかったのかも。
そう考えたら、一介の音楽家に過ぎない自分でも、その行動如何によって他人に大きく影響を及ぼしてるんだなぁと、身の引き締まる思いです。
ここで正直に打ち明けると、自分の幻想即興曲はまだ譜面の上っ面をなぞっているに過ぎません。
その奥深く息づくショパンの魂に触れ、音楽を解釈しながらテクニックに磨きをかけ、演奏を芸術の域まで高めるためには、少なくともあと10万回は弾き込まないと！そう思ってます。
そんな一心でピアノに向かう僕の幻想即興曲は、さぞかし焦りと意気込みが入り混じったものなのでしょう。
でもリナちゃんのお母様のように、その音色に耳を傾ける人がいて、ご自身の人生をチャレンジングで気高いものにしようとしている人がいる。
まるで物語のように、美しい魔法ではありませんか。
ピアノ講師をしていて良かった、心底そう思いました。
ノクターンの譜面
さて、話はまだ終わりません。
そこからリナちゃんのお母様の行動力には、目を見張るものがありました。
なんとアプライトピアノの購入に踏み切り、幻想即興曲に取り組まれたのです。
リナちゃんに、新しく届いたピアノの調子を尋ねてみたところ、
「私よりママの方がたくさん弾いてるよ」と教えてくれました(笑)
お母様は「練習に苦戦してます」と言いながら、どこか嬉しそう。
ピアノを購入されてひと月後、ご自身の入会に先立って、体験レッスンを受講されました。
持ってこられたのは「ノクターン遺作」として知られるショパンの「Lento con gran espressione」
まず、譜面を見て驚きました。
お母様ご自身の自筆で、細かく書き込みしてあるのです。
指番号から、装飾的な音符の発音タイミングまで。
CD等でプロの演奏を聴きながら、ご自身で勉強されたのでしょう。
並々ならぬ本気度が伺えました。
さらに遺作ノクターンそのものについても、丁寧に下調べされていらっしゃいました。
ショパンが妹に贈った私的なこの作品は、出版楽譜によって記譜に決定的な違いがあるのです。
単に譜面通りピアノを弾くのではなく、その曲の成り立ちから知ろうとするお母様の熱意と意欲。
普段お勤めや子育てでお忙しい分、大好きなピアノにかける時間と気持ちを大切にされているのでしょう。
ここまで自発的なピアノレッスン生は、僕の長い講師人生で初めてかもしれません。
30分の体験レッスンが、終わってみれば１時間を超えてました。
ちなみに、おうちではリナちゃんのお父様までピアノを弾いているのだとか。
「独学で弾くと変なクセがつくから、きちんと先生に習った方がいいよ、と言ってるんですけどね」
そう言いながらお母様は、レッスンで僕が書き込んだノクターン遺作の譜面を、大事そうにカバンにしまわれたのでした。
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