それはアンコール2曲目であった。
イントロが流れると、僕の精神は無防備になった。
まさかアンコールでこの歌が来るとは。
サラが歌い始める。
両の眼から、こらえようもなく涙がこぼれる。
それは、ある冬の日以来、聴くのを避けてきた歌だった。
万人の母なる存在
恵みあふれる 聖なる母マリアよ
主はあなたと共におられます
あなたは祝福された女性です
おなかの子イエスも祝福されています
聖なるマリア 神の母よ
罪を犯した私たちのためにお祈りください
今も 私たちが死する時も
アーメン
母なる面影
おばあちゃんの手作りおはぎで書いた通り、僕のおばあちゃんは本家の跡取りになるため、子供のころ幼女に出された身の上だった。
戦前の女性らしく夫の後ろを従順についていく人で、本家では家族や親戚縁者に恵まれた。
その一方、とてもタフな精神の持ち主で、大きな事故や病気をしても寝込むことなく家のために尽くした。
端から見たら理想的な人生を歩んでいたおばあちゃんだが、半年以上の重い入院生活の末、手の尽くしようもなく天に召された。
おばあちゃんが亡くなってまだ日も浅い冬の日。
何気なくかけたサラのウィンターアルバム「CLASSICS」
その冒頭「アヴェ・マリア」で不意に涙が止まらなくなってしまった。
「アヴェ・マリア」には、おばあちゃんが生涯ずっと求め続けながら、家を継ぐために諦めざるを得なかったものがあった。
実の母から無償で与えられるはずの母性愛である。
気丈な人だったから口にこそ出さなかったが「アヴェ・マリア」を聴いていると、おばあちゃんがどんな気持ちで80数年の生涯を送ってきたか痛いほど伝わってくる。
求めても、求めても、得られなかった母の面影。
その日以来僕は、サラの歌う「アヴェ・マリア」を軽々しく聴けなくなってしまった。
母と息子
この度の公演で「アヴェ・マリア」がより一層心身にこたえたのは、おばあちゃんのことだけではない。
今の僕が負っているものの存在。
昨年暮れ以来、1年間寝たきりでいる母のことがあるからだ。
病気の性質上、細かいことは書けないが、それは通常の介護の範囲を超えたキツさである。
今だからこそ明かせば、1月から8月にかけて、母と共に暮らすことは生き地獄同然だった。
なんとかして母を救ってあげたいという一心で、恥も外聞も世間体も捨てられたし、意に介せぬ医療関係者に対して怒鳴り込んでいくことも厭わなかった。
日が経つにつれ、呪われたかと思うほど極限状態が常態化していった我が家。
介護経験さえない人には、とうてい僕の気持ちなんて理解できるはずもない。
肉体的に精神的に、母よりも先に自分のほうが参りそうだった。
いっそ母と共に無理心中したい衝動に駆られた。
おばあちゃんのように母親を失った苦しみに苛まれている人もいるというのに。
母親と共にいることで苦しみに苛まれている僕のような人間もいるのだ。
なんとこの世は憐れみ深い場所なのだろう。
身も心も破綻寸前の生活が120日続いた矢先、僕が手に入れた3時間のフリータイム。
それがサラの広島公演だった。
聖なる歌声
アンコールの「アヴェ・マリア」
サラの歌の中にあったもの。
それはひたすら慈愛だった。
母のことを想って泣いた。
そして母を殺そうとした自分のことを想って泣いた。
その歌声は、神の声のように僕を教え諭した。
「あなたの母は、祝福された存在である」と。
「罪を犯そうとしたあなたも、祝福された存在である」と。
「どんな時もあなたは神の恵みと共にある」と。
光の先にあるもの
泣けた。
泣けて、泣けて、仕方なかった。
終演後ひとまず席を立ったものの、涙が止まらず、とても人前に出れない。
ロビーのソファーに崩れ落ちる。
スマホを打ちながら、ボロボロこぼれ続ける雫をハンカチで拭う。
4月19日のツイッターは涙で滲んだ。
サラがHYMNワールドツアーの頂に据えたもの。
それは「許し」と「祝福」であった。
(完)
サラ・ブライトマンHYMNワールドツアー広島公演レビューシリーズ
●第一夜「僕の街のサラ・ブライトマン」
hidekimatsubara.hatenablog.com
●第二夜「サラ・ブライトマン『HYMN』ワールドツアー来日公演in広島」
hidekimatsubara.hatenablog.com
●第三夜「涙のサラ・ブライトマン」
hidekimatsubara.hatenablog.com
●第四夜「嵐のスタンディングオベーション」
hidekimatsubara.hatenablog.com
●第五夜「サラ・ブライトマンがHYMNワールドツアーで実現したこと」
hidekimatsubara.hatenablog.com
⚫︎第六夜「HYMNワールドツアーに秘められた物語」
hidekimatsubara.hatenablog.com
●第七夜「天使降臨」
hidekimatsubara.hatenablog.com
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